木崎原古戦場跡

木崎原の合戦
木崎原の戦いは、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)で伊東義祐と島津義弘の間で行われた合戦です。
元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍3000余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地にかえり、鳥越城に布陣した後続軍と合流しました。
しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果たし、一方、伊東氏は居城都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来より「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
三角田

木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで島津義弘が伊東の将、伊東進次郎を槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた島津義弘を退かせるために盾となって久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の6重臣が討死したのもこの場所です。
六地蔵塔

木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。
島津氏は、大きな戦いの跡地には殆ど六地蔵塔を建立して供養しています。

六地蔵塔は樹齢400年以上の杉に囲まれています。
元巣塚

合戦後、伊東氏の霊を恐れた地元民のため、地頭の伊集院肥前入道元巣が慶長18年に供養した塚です。
太刀洗い川

島津方の将兵が戦いで血に染まった刀を洗ったされる小川です。
首塚

伊東方の戦死者の首を埋葬した塚。伊東方の戦死者のうち、名だたる将および宗徒の首を小林の三ッ山城へ送り返し、その首は伊東塚(小林市、県指定史跡)へ葬られました。その他の首は、この地に埋められ供養されています。
更新日:2022年02月28日