田の神さあ
田の神は、冬は山の神となり、春は里におりて田の神となって田を守り、豊作をもたらすと信じられています。
「田の神」信仰は、全国的な民俗行事として古来から農村に浸透していますが、「田の神」を石に刻み(田の神石像)豊作を祈願する風習は、18世紀初めに始まる薩摩藩独特の文化です。
「田の神石像」ができたころは、霧島の噴火・天災などが原因で、農家にとって大変きびしい時代でした。江戸時代からの赤字経済を立て直すため、薩摩藩では少しでも収穫を増やそうと、稲作を奨励する政策を行っていました。このような政策の中、農家は霧島の噴火をやめさせ、稲作の豊作を願うために「よりどころの像」を作るようになったといわれています。
えびの市の最古の「田の神石像」は1724年(享保9年)に中島地区に作られた神官型のものです。
田の神のことを、地元では「田の神さあ(タノカンサア)」と呼んでいます。えびの市内には約150体の田の神が残されています。

田の神石像の型
田の神さあには、4つの型があります。
農民型の田の神さあ
シキ(縄で編んだ敷物)をかぶり、メシゲ(しゃもじ)とおわんを持って表情豊かにユーモラスに踊る(田の神舞)姿は、農民型の典型です。えびの市でも、この型が最も多く存在しています。
神官型の田の神さあ
神官型の田の神は、衣冠束帯(イカンソクタイ)またはそれに近い服装で、手にはシャクを持つものが多く、神官が神前に座るような姿をしています。神官型は、霧島噴火の被害地方に多く、宮崎県で始まったとされています。
自然石の田の神さあ
田の神の石像が造られる以前は、自然石を立てて田の神をまつっていたといわれています。
地蔵型の田の神さあ
地蔵型は、最古の田の神像です。鹿児島県鶴田町柴尾に作られて物が最も古い地蔵型の田の神像です(1705年)。島津藩の一向宗禁止との関係のためか、えびの市ではこの型は少ないです。
田の神にまつわる風習
回り田の神
農家を次々に回って豊作を祈願する「回り田の神」の風習は今でも市内各所で残っています。当番の家では、田の神像に化粧をし、ごちそうを作り大事に床の間にまつります。田の神は、春・秋交代で次の座元へ回っていきます。
昔、「平日、村で打ち寄り酒を飲むこと」が禁止されていた時代。この日だけは、お酒を飲むことが許されていたそうです。
オットイ田の神
昔は、田の神を盗む(オットイ)という風習がありました。豊作の続く地方の田の神像を置くと、米が良くとれるようになるといわれたからです。また、田を新しく開田したところには田の神がないので、よその田の神を盗んだそうです。
実際には、借りてくるのですが、盗まれたところは、盗んだところが返しに来るのを待っていました。盗んだ田の神像は3年以上置くと不作になるので、盗んだ集落では3年経ったらお礼として籾や焼酎、ニワトリなどを持って正装して楽器を鳴らしながら、にぎやかに田の神像を送っていきます。盗まれた村では、サカムケ(坂迎、酒迎)の準備をして待ち、合同で盛大な酒盛りをしたそうです。
田の神さあの里づくり
米どころであるえびの市では、実り豊かな地域の文化財である「田の神さあ」をシンボルとする、「田の神さあの里づくり」運動に取り組んでいました。この運動は、宮崎県が提唱する「新ひむかづくり運動」の一環として昭和61年から取り組んでいたものです。
更新日:2022年02月28日