京町温泉・吉田温泉の歴史

更新日:2022年03月29日

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京町温泉

えんじ色の京町温泉の暖簾の写真
広大な川内川から見える霧島連山の写真
「ありがたや 熱い湯のあふるるにまかせ」と文字の刻まれた種田山頭火の歌碑のアップ写真

宮崎県で最も泉源の豊富な温泉です。市の中央部を流れる川内川沿いにあります。

泉質も、バラエティに富んでいます。日本情緒あふれる風情を、郷土料理とともにお楽しみいただけます。

京町温泉の歴史

京町温泉は、その昔、雷温泉とも呼ばれていました。大正期に黒松旅館(当時)の経営者が梅雨時に温泉を掘削中、少量の湯がゆう出。孟宗(もうそう)竹に国旗を掲げて喜んだところ、先端に雷が落ちて竹が飛び散り、翌日から高温の湯が出るようになったといわれています。

種田山頭火と京町温泉

木々の生い茂った広場にある種田山頭火の歌碑の写真

自由律俳人山頭火は、行乞記「あの山を越えて」によると、昭和5年9月17日、人吉から肥薩線にて吉松駅に着き、さらに行乞しながら京町温泉までたどりついて1泊しています。「ここには熱い温泉がある。ゆっくり浸かってから、焼酎造元の店頭に腰かけて一杯を味わう。」と記しています。そして、次の句を詠んでいます。

「ありがたや 熱い湯のあふるるにまかせ」(写真の句碑)

「山の水は あふれてあふれて」

「投げ出した足へ とんぼ とまらうとする」

「はてもない旅の 汗くさいこと」

「このいただきにきて 萩の花ざかり」(老人福祉センターに句碑)

野口雨情と京町温泉

民謡や童謡の第一人者として、明治大正から昭和のはじめにかけて北原白秋、西条八十とともに三大童謡詩人とうたわれ、一世を風靡(ふうび)した詩人野口雨情は、50歳代半ばの昭和10年と12年にえびの市を訪れました。そして数篇の歌謡を残しました。

「真幸京町 別れが辛い 霧が姿をまた隠す」

「湯なら京町 米なら名どこ 日向真幸が忘らりよか」

「名残惜しさに見返りや今朝も 真幸京町霧が降る」

「わたしや京町温泉そだち 色も香もあり艶もある」

「真幸京町温泉帰り 肌に湯の香がほんのりと」

出典 定本野口雨情第5巻地方民謡(未来社)

吉田温泉

遠くに生い茂った樹木が見える住宅街にある吉田温泉の写真
紫色の吉田温泉の暖簾の写真

矢岳高原の麓にある宮崎県で最も古い温泉です。鹿の湯ともよばれ、地元や湯治客に親しまれてきました。ひなびた風情があり、隠れた名湯として多くの地元客や観光客に愛されています。

吉田温泉の歴史

天文二十三年(一五五四年)、霧島山が噴火を起こし、真幸一帯に地震が起きました。その地震で山崩れや土地が陥没するなどの地形変動が起きました。その時、昌明寺地区の岩間から湯がわき出しました。ある時、近くの住民がこの温泉で傷を癒しているシカを発見しました。これを見た住民は、傷を癒す温泉として、そこで療養するようになりました。また、住民は、この温泉をシカが傷を癒していたことから「鹿の湯」と名付けました。

当時の領主だった島津義弘は、「鹿の湯」が万病に効くと聞きつけると、湯治施設を造らせ、愛浴するようになりました。木崎原の戦いでは、負傷した兵の傷を癒すためにも使いました。天正五年(一五七七年)、義弘は、戦で負傷した兵士達を救った温泉として、湯屋を改築し、湯権現社を建立しました。また、温泉の管理規則を定め、温泉の近くに郷士を湯守役として住まわせました。湯権現社は、現在でも「鹿の湯」の近くにあります。 薩摩藩時代、「鹿の湯」のあった場所は、「吉田ん湯」と呼ばれていました。「吉田ん湯」は、廃藩置県のあと、温泉の運営が藩営から民営に移行したのと同時に、名前も「吉田温泉」に改められました。

生い茂った樹木の根っこの近くにある湯権現社の写真

湯権現社

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